2012年 ベティーさんと行くペルー訪問  実施報告 (前編)
こんな旅でした
  
高浜国際交流協会は、町内に長年住んでおられる方と一緒にその方の故国を訪問する事業を行っています。第二回の今回は高浜に20年近く在住されている、ベティ・エルドリッヂさんとペルーを訪問しました。
 参加者はベティさんのほか7名の会員が参加し、合計8名の訪問団となりました。訪問先は世界遺産に指定されている「マチュピチュ」「チチカカ湖」「ナスカ」で、首都のリマではベティさんのご親戚の方々や、かつて高浜に在住しておられた方々との交流も計画しました。 

2012/6/5〜
6/6

出発

ペルー到着
 平成24年6月5日早朝、高浜をバスで出発して伊丹、成田、ロサンゼルスを経由してペルーの首都リマに到着したのは29時間後の現地時刻6月6日午前0時過ぎでした。


ホテルに到着して長旅の疲れを癒す間も無く、朝5時にホテルをチェックアウトしてクスコに向かいました。標高3,360mのクスコへの飛行機の便は気象の関係で朝方か夕方だけだとの事です。インカ時代の首都だったクスコは広い谷間に歴史を感じさせる町並みが広がっていました。ホテルに荷物だけ預けた一行は途中、インカ時代の遺跡やインカ時代に山の斜面を頂上付近まで段々畑として開拓していた「千枚畑」を見学しながら、マチュピチュ村行きの鉄道駅が在るオリャンタイタンボに到着しました。
 
ウルバンバ川に沿って走る渓谷鉄道の列車は車窓だけでなく天井からも景色を展望することが出来、大自然のパノラマを満喫しました。同席したフランス人やアルゼンチン人家族の方々とも話が弾んでいました。アルゼンチンの方から「AKIRA KUROSAWAの『DREAM』が好き」とか「YASUNARI KAWABATAが好き」と言われ、日本人としてとても嬉しくなりました。最も盛り上がった話題は「サッカーワールドカップ・ブラジル大会最終予選」についてでした。マチュピチュ村ではみんなで水着に着替えて温泉を楽しみました。世界各地から集まっている人達と一緒に露天風呂に入るのも大変貴重な体験でした 

 6/7

マチュピチュ

ワイナピチュ
 翌朝は5時30分にホテルを出て、いよいよインカの聖地マチュピチュに向かいます。マチュピチュでの日の出を期待しての早朝出発でしたが、残念ながら雨になってしまいました。バスはマチュピチュの発見者の名前がつけられたジグザグの山道「ハイラム・ビンガムロード」を登ります。30分後、標高2,430mの「空中都市」マチュピチュに到着です。パスポートによる本人確認で受付を通過、はやる気持ちを抑えながら進んでいきます。垂れ込めた雨雲と霧の中から石垣の段々畑が、そしてその先に石作りの楼閣が現れてきました。3,000mを遥かに超える峰々に囲まれた壮大な石作りの遺跡は、思わず息を呑む美しさ、神秘さで、目の前に広がっていました。
 
現在、マチュピチュへの入場者数は1日2,500人、ワイナピチュへは1日400人という入場制限がされています。現地語でマチュピチュは「老いた峰」、ワイナピチュは「若い峰」を意味し、ワイナピチュに登ると「人生のどんな苦難も乗り越えられる」と云われていると後で聞かされました。
 ワイナピチュへは午前7時から8時の間に入らなくてはいけません。迷路のような遺跡の中ではぐれてしまった2人を残して、6人はワイナピチュの頂上を目指しました。すれ違いが困難な細く急峻な石の階段が続く登山道を1時間半余り、休み休み登り続けました。霧雨のような雨が絶え間なく降り続いています。最後に小柄な人がやっと通れるような穴を通って頂上へ出ます。雲上に達したかの様な眺望は、疲れや衣服が濡れた寒さを忘れさせてくれました。別行動の2人は反対方向のインカ道をひたすら歩き続け、「熊に注意」の看板を見て引き返してきたことを、入口で再び合流した時に知りました。
 マチュピチュ村からポロイ駅までの帰りの列車の中はコロンビアからの団体と一緒になり「ハポネ!ハポネ!」と、まるでサッカーの応援をしているような賑やかさでした。此処でも話題はやはり「サッカーワールドカップ最終予選」についてです。中には「日本の経済は不況なのに、どうして円がこんなに高いのか?」という質問もありました。 

6/8

アンデス山脈

6月8日はクスコを7時発、プーノに17時着のバス「インカエクスプレス」に乗ってアンデス山脈を越えていきます。途中、アンダワイソーヤス遺跡、ラクチ遺跡、ラ・ラヤ遺跡、プカラ博物館を見学しながら10時間のバスの旅でした。
 私たち訪問団はバスの最後尾の席でしたが、その中に一人旅をしているティアッサというブラジルから来た22歳のドイツ人女性が居ました。訪問団全員を紹介し、昼食も一緒に食べるなどしてメンバーの一員のように過しましたので、プーノに着いたときに彼女は「悲しい」と言って泣くしぐさをしながら別れて行きました。その後もメンバーからは「彼女はどうしているだろう?」という声が聞こえて来ました。
最も標高の高い所で4,500mの峠越えでしたので、歩く時には平衡感覚を失ったような「ふわふわ」した状態でした。メンバーの中に体調を崩した人も居て、プーノのホテルで酸素吸入を行ってもらいました。
 
 6/9

アマンタニ島での
ホームステイ
 6月9日の朝はアマンタニ島でのホームステイの準備をして出発です。

 船着場でホストファミリーへのお土産にオレンジ、リンゴ、バナナ等の果物や米を買いました。標高3,800m、琵琶湖の約13倍の大きさのインカの聖地、インカの母なる湖、チチカカ湖は抜けるように青い空と一体となって何処までも続いているように見えました。
モーターボートで最初に訪問したのは、葦の浮島ウロス島です。上陸してみると足元が「ふかふか」して不安定な感じでしたが、2m程の厚みの葦の根の上に2mの厚みで葦を敷き詰めていると説明され、その仕事量の多さに驚きました。手漕ぎの葦船に乗って遊覧をした時に子供たちも同乗して日本の童謡を歌ってくれました。しかし、それがチップを得る為だと知った時には、ウロス島のインディオの生活が本来のインカの文化を離れて、観光客用のテーマパークの様子を呈していると感じ、その一助をしている自分に少し自己嫌悪を感じました。

 ウーノ湾を出てグレートレークを更に2時間、ホームステイ先のアマンタニ島を目指します。港にはホストファミリーが出迎えに来られていて、2家族に分かれてお世話になることになりました。もちろん日本語も英語も通じません。ベティさんのグループはベティさんがスペイン語が堪能なので安心ですが、私のグループは英語が話せるガイドのノエリアが頼りです。
 
ママのアイローラ、息子のエディ、ノエリアと一緒に昼食を頂いた後、島の山頂に在るインカ以前の遺跡、プレインカの遺跡「太陽の神殿」に登りました。周囲の段々畑の収穫間近な大麦等を眺めながら、緩急織り交ざった坂道を時々休みながら歩くこと90分。標高4,150mの「太陽の神殿」遺跡からの眺めは登山の疲れを一気に吹き飛ばしてくれました。島一面に広がる石積みの段々畑の美しさ。東の水平線の遥か彼方に日差しを受けて輝く、隣国ボリビアの白銀の峰々。そして西の空に沈み行く真っ赤な夕日。悠久の大自然の営みを体一杯に感じながらチチカカ湖に沈む夕日を眺めていました。

 アイローラが用意をしてくれた夕食を頂いた後は「折り紙教室」が始まりました。メンバーの一人が持参した折り紙でアイローラとノエリアに「折鶴」の折り方指導です。エディとは「カメラ」や「だまし舟」で遊びました。その後、アイローラとメンバーたちはインディオの民族衣装に着替えてダンスパーティへ。会場一杯の人達が民族音楽に合せて、時には少人数のグループで、時には全員が一列に手を繋いで踊り続けました。

 会場を出ると空には満天の星が輝いていました。標高4,000m、人工の光の無い島の上空には、いつも見慣れている「北斗七星」が「北斗八星」となって、手が届きそうなほど間近に大きく見えました。 

6/10

 タキーレ島
 6月10日はホームステイ先で朝食の後、ホストファミリーとお別れしてタキーレ島に向かいます。「タキーレとその織物技術」で世界無形遺産に登録をされている織物の島です。中央広場まで緩やかな坂を登ること40分。細かい手の込んだ独特の模様の織物に魅了されたメンバー達は買い物に余念がありませんでした。

 プーノに戻って遅い昼食を軽く摂るために、ホテル近くのスーパーへ買い物に出かけました。オプション観光で「シユスタニ遺跡」に向かう車中で食べる事にします。遺跡にはプレインカからインカ時代に造られたチュルパと呼ばれる円筒形の墳墓が点在しています。
遺跡を取り囲むウマヨ湖に浮かぶ台形の島では、ペルーの国獣ビクーニャが飼育されています。メンバー達はその島をバックに思い思いのポーズを決めて記念撮影です。帰り道、子供のビクーニャを連れた島民が居ました。早速、チップを払ってみんなで写真を撮りました。


夕食はノエリアが予約を入れてくれたショー付のレストランへ。ショーの合間にはメンバー達も地元のお客さん達と一緒にステージに上がってダンスを楽しみました。
 

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